徳川家の菩提寺「寛永寺」

画像:寛永寺

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昔は上野公園一帯が寛永寺の敷地だった

寛永寺は天台宗の別格大本山のお寺です。
1625年に徳川幕府の安泰と万民の安泰を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の地に、慈眼大師・天海大僧正によって建立されたお寺です。
JR山手線鶯谷駅から徒歩で5分で上野公園を通り抜けたところに根本中堂がひっそりとあります。
上野恩賜公園にある五重の塔を眺めながら更に歩いていくと寛永寺の本堂が見えてきます。
建物は荘厳で立派な建築物です。
上野公園の鶯谷駅のすぐそばといったほうが分りやすいです。

後の将軍・徳川家綱公の霊廟が上野の地に造営され、徳川家の菩提寺も兼ねることになりました。
そのため江戸時代には、格式と規模において我が国随一の大寺院になりました。
また東叡山主を皇室から迎え入れ輪王寺宮となられました。

しかしながら幕末の上野戦争により、敷地の大部分が上野公園になりました。
幕末までは、上野公園の一帯が寛永寺の敷地であったということです。

また関東大震災や太平洋戦争の被害もありあったのですが、戦後は新たに霊園を造営して一般の檀家を受け入れるなど、開かれたお寺としての役割を果たすことを目指しています。
名称は、東叡山寛永寺が正式名で、山号は「東の比叡山」の意味があり、寺号は、寛永年間に創建されたことより寛永「寛永寺」としており比叡山延暦寺を見立てています。
宗旨は、天台宗で宗祖は伝教大師最澄になります。
17世紀後半からは皇族が歴代住職を務め、日光山・比叡山をも管轄する天台宗の総本山として近世には強大な権勢を誇っていましたが、慶応4年の上野戦争で主要伽藍を焼失し現在の上野公園として残されているエリアとなっています。

6人の将軍が将軍御霊廟に眠っている

寛永寺墓地は、JR山手線鶯谷駅から歩いて10分、東京博物館裏手にあります。
ここには徳川家将軍15代将軍の内6人が眠っている徳川家霊廟になるのです。
4代徳川家綱・5代徳川綱吉・8代徳川吉宗・10代徳川家治・11代徳川家斉・18代徳川家定の6人の将軍たちの墓があります。
家綱の厳有院霊廟と綱吉の常憲院霊廟は建築物群は、東京の観光名所として知られ、旧国宝に指定されていた神社・寺として貴重な歴史的建造物であったが、昭和20年の空襲で大部分を焼失しました。
焼け残った建造物は、現在重要文化財に指定されています。

重要文化財に指定されているのは次の神社・寺にある文化財になります。
上野恩賜公園内にある清水観音堂は、元禄初期に、今の噴水広場の他に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7年9月に現在地に新築されました。
上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。
平成2年12月から文化財保存修理が行われています。

旧本坊表門(輪王寺所在)・厳有院霊廟関係では、勅額門・水盤舎・奧院唐門・奧院宝塔・凌門院宝塔が文化財指定です。

常憲院霊廟関係では、勅額門・水盤舎・奧院唐門・奧院宝塔・有徳院宝塔・孝恭院宝塔・温恭院宝塔・天璋院宝塔が文化財指定を受けています。

寛永寺は、創立者は徳川家光になりますが開山である初代住職は、天海になり御本尊は、薬師如来です。
天台宗の関東総本山の寺格になっており、徳川家の菩提寺ではありますが薬師如来が御本尊であることが違っています。

神社・寺の札所としては、江戸三十三か所の6番目の札所になっています。

根本中堂は17世紀建造!明治に埼玉から移築

近世を通じて、寛永寺は徳川将軍家はもとより諸大名の帰依を受けた上野の山一帯の広大な寺域を有する38もの院の総称を寛永寺と言ったそうです。
天台宗の寺院では、本堂にあたる建物を根本中堂と称しています。

元禄十一年(1698年)現在の上野公園内大噴水の地に建立された根本中堂は、慶応4年(1868年)彰義隊の戦争の際に焼失してしまいました。
現在の根元中堂は、JR山手線鶯谷駅から歩いて5分の上野公園のはずれに位置しています。
明治十二年に川越喜多院の本地堂を山の子院の大慈院の地(今の寛永寺の)に移設し再建したものです。
昔の面影を残しながらかっての権勢のあった頃を偲ぶことができます。

JR鶯谷駅周辺は、神社・寺をめぐる「七福神めぐり」ができる場所としても有名です。
江戸時代からあるお正月の風習で、お正月の「松の内」の期間中、期間内に神社・寺をめぐると、ご利益があるとされています。
期間的には、1月1日から7日や15日までが御開帳の機関になっている社寺が多いようですが通年行っているところもあるようです。
都内だけでも15以上の七福神巡りがあります。
上野寛永寺は、江戸三十三か所の札所として知られており、鶯谷では、「下谷七福神巡り」ができます。
各社寺で色紙が売っているので、そこに御朱印を押してもらいましょう。
寛永寺周辺も正月には、参詣に来る人が増えて賑わいを増します。
普段JR山手線内で乗降客が少ない駅の周辺がにぎわう季節になります。
上野駅周辺のにぎやかさが、上野の森全体に広がってくる年中行事としてのイベントになります。

明治維新後、寛永寺の境内地は没収され輪王寺宮は還俗し北白川宮になりました。
彰義隊の戦の戦場となったのが寛永寺根本中堂の周辺で壊滅的な打撃を受けました。

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