黒衣の宰相・天海僧正によって開かれた
JR京浜東北線と山手線の電車が停車する鶯谷駅に隣接して、広大な面積を誇る寛永寺があります。
鶯谷駅から見て南口に近い一帯はすべて寛永寺の霊園となっていますので、根本中堂などのメインとなる建物に移動する場合、鶯谷駅の北口から寛永寺坂を回ると1キロメートルほど、鶯谷駅南口を出て霊園の檀徒駐車場から境内に入るのであれば500メートルほどの道のりになります。
この寛永寺は天台宗の別格大本山となっており、歴史をさかのぼると江戸時代のはじめの寛永2年、西暦でいえば1625年に天海僧正によって開基された寺院です。
江戸幕府を開いた徳川家康は天海僧正を側近として重用し、後に豊臣家滅亡をもたらした方広寺鐘銘事件、家康没後の東照大権現の神号勅許などの一件に大きくかかわり、俗に黒衣の宰相とも呼ばれる人物です。
江戸幕府初代の徳川家康のみならず、2代将軍秀忠、3代将軍家光にも仕え、厚い信任を受けていたといいます。
特に当時の江戸には徳川家の菩提寺として浄土宗の増上寺はあったものの、天海僧正の学んだ天台宗の大寺院はなかったことから、2代将軍の徳川秀忠から上野忍岡の地を賜り、江戸幕府の安泰と人々の平穏無事を祈念して建てられたのが寛永寺ということになります。
後には第4代将軍の徳川家綱の霊廟も営まれたことから、将軍家の菩提寺ともなりました。
また東叡山寛永寺貫主を皇室から迎え、日光山輪王寺門跡を兼務して輪王寺宮と呼ばれたこともあって、その規模だけではなく格式の面から見ても、江戸時代にはトップクラスの実力を誇っていたといっても過言ではないといえるでしょう。
江戸城の鬼門に位置!江戸を守ってきた
寛永寺の開基となった天海僧正は謎が多い人物で、歴史的に確実といえるわけではありませんが、もとは現在の福島県の会津地方を中心に威勢を誇った戦国大名の蘆名氏の出自とされ、比叡山で天台宗の教えを学び、徳川家康の側近となってからは、埼玉県の喜多院や茨城県の江戸崎不動院の住職を経て、日光山貫主や寛永寺の住職の地位に就いたとされています。
また陰陽五行や風水の考えにもとづいて、江戸の街並みの都市計画にたずさわったともいわれており、天下普請で大規模な埋め立てや水路の整備などを行い、江戸城を中心に螺旋形に広がる縄張りが構築されたのも天海僧正の助言の賜物といいます。
実はこの寛永寺も江戸城から見ればちょうど北西方向の鬼門にあたる場所にほかなりません。
寛永寺の山号は東叡山といいますが、これは平安京の位置する京都の鬼門を守護しており、かつ天台宗の聖地でもあった比叡山になぞらえています。
寺院の直下に不忍池があり、弁天堂が祀られているのも発想は同じことで、実は京都でいうところの琵琶湖を模したものにあたります。
天海僧正がわざわざ琵琶湖に浮かぶ竹生島の弁財天を勧請したのが現在の不忍池弁天堂のはじまりで、これも寛永寺の建物のひとつです。
境内の建物も多くが比叡山にもその名前があります。
根本中堂や法華堂、常行堂などはその一例で、現在は上野恩賜公園内に建つ懸崖造りの清水観音堂も、京都の東山にある有名な清水寺をイメージした建物といえます。
江戸幕府が260年の長きにわたって存続することができたのも、このように宗教的な加護を意識した寛永寺の設計思想そのものにあるといえるかもしれません。
多くの建物が幕末に焼失
かつての寛永寺は現在の上野恩賜公園の領域がすっぽりとおさまるほどの境内地を抱えていたとされています。
最盛期には寺領は1万石以上、子院が36か所あったという大規模なものでしたが、江戸幕末にはすでに多くの建物を失っています。
江戸幕末の慶応4年、西暦でいえば1868年、鶯谷周囲の上野の山をめぐって新政府軍と旧幕府軍にあたる彰義隊が激突したことは、歴史の教科書などにも掲載されている史実です。
新政府軍による江戸城総攻撃の計画は、勝海舟と西郷隆盛との会談によって回避され、江戸無血開城の成果をもたらしましたが、これに納得できない勢力も当然ながら存在しました。
その急先鋒の彰義隊は徳川家菩提寺の寛永寺にたてこもり、ついに戦端が開かれたのが上野戦争と呼ばれる戦いです。
寛永寺の入口にあたる黒門をはじめとして、いくつかの門で両軍が激突し、特に新政府軍ではアームストロング砲による砲撃などを激しく行い、彰義隊はほぼ全滅し、寛永寺の建物もこの戦いの兵火によって焼失しています。
寺院の中心となっていた根本中堂もこのときに焼失しており、現在あるものは実は明治時代になってから川越の喜多院から移築したものです。
その後も明治維新にともなって廃仏毀釈運動が進み、寺院の境内地も国に上地することとなり、寛永寺の境内地は大幅に縮小されました。
そのためもとは境内地だったところが現在は上野恩賜公園の敷地となっていると考えても間違いではありません。
さらに幕末の混乱を乗り切った後も、第二次世界大戦下の東京大空襲によって東京全体が焼け野原となる惨害をこうむり、かろうじて残った建物やその後復元された建物が現在の寛永寺を成り立たせています。